弁護士法人FAS淀屋橋総合法律事務所

ニュースファイル ◎マスコミ報道、コメント

当事務所の弁護士の活動分野のニュースファイルです。

●裁判員制度についての斎藤浩の論説 (産經新聞2009年9月16日)

この夏見えた国民の力―裁判員裁判の出発に思う
「裁判内容に国民の健全な社会常識がより反映されるように」(司法制度改革審議会意見書)するための裁判員裁判が全国の多くの裁判所に広がり、罪名も多彩となり、否認案件もあらわれ、刑も実刑あり執行猶予、保護観察ありと順調に進んでいる。報道も落ち着いて、裁判員の能力の高さ、一般国民が裁判を担当することの難しさ、市民感覚が裁判の結果である判決に入ったかという優れた視点が競われている。
無罪の推定ではなく有罪の推定とまで言われているこの国の裁判、密室取調べで採られた調書偏重の裁判、職業裁判官たちが作ってきた個別事情を軽視する統計的「相場」裁判が変わる可能性が出てきた。裁判員制度と同時に、刑事訴訟法を改正しての公判前整理手続で検察手持ちの証拠開示の大幅な拡大がなされ、取調べの様子を録画して残す可視化の試みも進められている。
私は、この新制度が、劇的な衆議院選挙(八月八日公示、三〇日投開票)と同時期(八月三日)に開始されたことは歴史の偶然であるとは思えない。
国民の力が権力を変えるというデモクラシーの基本が、国会と政府という政治部門に典型的に選挙で顕われたが、司法府=裁判所にも見え始めた。
もちろんそれは裁判が政治的多数派の影響下におかれるべきだと言うことではない。逆である。裁判は時の政治権力から被告人をはじめとする少数者の権利・自由を確実に守る役割を持つ。
国会・政府部門における多数派の構成と、司法=裁判部門における少数者の権利・自由確保のための制度の確立、そのどちらもが国民の力でのみ可能なのである。逆に言えば、国民の力が発揮されなければ国会、政府ともに弱体化し、裁判所は非常識の府に堕する。
大げさなようだが、この国に生まれて良かったと思える歴史を、この夏から、国民自身が自らの行動で作り始めたのではないかとさえ思えるのである。思えばデモクラシーが着実に根付いていたのである。
司法分野への国民参加は欧米の知恵だが、日本でも初めてではない。戦前には裁判員制度よりも徹底された陪審制が戦争で中断されるまで実施されたし、戦後は検察官の不起訴は不当だとの民意を反映させる検察審査会制度が営々と維持され、着実に成果を上げ、今年から審査会の議決の効果が強化されている。参加した検察審査員のアンケートでは誇り高い仕事を果たしたとの意見が示されている。うまくいっていないのは最高裁判所裁判官の国民審査制度であるが、それには制度的理由がある。「×」をしようにもわからないから何も書かない投票を信任と扱うなど茶番ではないか。しかも最高裁裁判官の名やその業績はほとんど情報化されていない。これも制度を変えれば国民の力を示すことは可能である。司法、裁判の場への国民参加は日本のシステムを下支えするのである。
さて始まったばかりの裁判員制度だが、運用実績を点検しなければならない。裁判所、検察庁、弁護士会、学者、労働組合、市民団体などを糾合した点検委員会を各地に作り、総括し、運用改善(たとえばわかりやすさの追求が過度となりやるべき証拠調べが簡単になりすぎる傾向の防止策、裁判官の意見の押しつけの防止策、選任手続の再工夫など)をどんどん実施し、その結果にもとづき国会で「裁判員の参加する刑事裁判に関する法律」の三年見直しの時期に必要な改正(たとえば裁判官と裁判員の三対六の比率は適切か、対象罪名を広げるか狭めるかなど)を断行すべきである。この制度が定着してくれば、次には国や地方公共団体を相手にする行政裁判の場など国民の目で判断するのに適した分野にも裁判員制度を導入すべきであろう。

さいとう・ひろし 昭和20年生。弁護士。淀屋橋総合法律事務所長。立命館大学法科大学院教授。 


●斎藤浩の書評『螻蛄(けら)』黒川博行著 (産經新聞2009年9月13日)

【書評】『螻蛄(けら)』黒川博行著

■うごめく人間描き悪を暴く

「疫病神」シリーズ第4作。帯に「ノンストップ・ノワール」。暴力描写をふんだんに登場させる犯罪小説である。私のタウン誌「おおさかの街」の巻頭言を1997年、黒川氏にお願いした。「失われた原風景」と題された短文に、大阪の雑然混沌(こんとん)文化の喪失、東京へのひがみ根性、経済第一主義への批判、芯(しん)にプライドがあり揺るぎがない京都との対比を書いていた。その97年にシリーズが始まっている。黒川氏は内面にこのような大阪批判をかかえて、イケイケの大阪やくざの桑原とほとんどそのフロントといえる主人公二宮に、コテコテの大阪弁での掛け合い漫才を展開させつつ主題に迫る。
今作ではその揺るぎがない京都の仏教大宗派の恥部を扱う。真宗大谷派(東本願寺)がモデルであろう。その内紛と腐敗を嗅(か)ぎ付けてシノギにしようと攻める桑原は山口組系が強く暗示され、守る寺側につく組は極東会系を想像させる。寺側には大阪府警の警官も。経済やくざが主流の今日でも、最終決着は陰陽の暴力であることを迫力ある筆致で描いている。
二宮はサバキで生計を立てる。建築現場への言いがかりを他のやくざ、上位の組で決着を付ける。桑原に利用されながら助けもし、自分の利益を確保していく道行きはシリーズを貫く背骨である。「疫病神」の産業廃棄物問題で知り合った2人が、「暗礁」で運送業界問題、「国境」で北朝鮮問題と現代のいわばタブーに挑戦し、本作で宗教に迫る。タブー・悪の解明を正義でなく悪でおこなうという手法の特異さは、いまや読者の待望の的となっている。
螻蛄とは、やなせたかし作詞、いずみたく作曲の名曲「手のひらを太陽に」の歌詞、「みみずだって おけらだって」の、あの「おけら」である。「みんなみんな生きているんだ 友だちなんだ」という清浄な世界からはほど遠いけれど、黒川氏は螻蛄の特徴(昼は地中に棲(す)み、土中でジーと鳴き、前足で土を掘り、夜は灯火めがけて飛び回る)をやくざに重ね、宗教者に重ねて、うごめく人間を描く。そして悪をあばく。(新潮社・1995円)
評・斎藤浩(弁護士)


●大分県教委汚職問題、教員採用取消処分についての斎藤浩へのインタビュー ~訴訟 真相究明へ注目/検証 県教委汚職
(朝日新聞大分版2009年3月30日朝刊)

訴訟 真相究明へ注目/検証 県教委汚職 

顔写真省略(斎藤浩弁護士=2月4日午後5時24分、東京都千代田区)

県教委の教員採用を巡る汚職事件で、採用取り消し処分となった男性元教諭2人が、県を相手に処分の取り消しを求めた民事訴訟が30日から順次始まる。事件で贈収賄で起訴された8人全員に有罪判決が言い渡されたが、不正合格の口利きの実態は依然として解明されていない。日本弁護士連合会行政訴訟センターの斎藤浩委員長(63)に訴訟の意義や課題について聞いた。(聞き手・宋潤敏)

――訴訟の意義は?

行政に正職員としての採用を取り消された人が、その処分の取り消しを求めた訴訟はこれまでにないのではないでしょうか。初めての例で非常に注目度の高い裁判になるでしょう。刑事裁判では明らかにならなかった不正合格の口利きの真相究明の場としても注目です。
口利きした政治家や県教委幹部などの名が書かれているというリストや、公の席で説明責任を果たしていない教育長の証言を法廷に引き出すことも可能でしょう。闘う弁護士としてはそういう利用方法は当然で、根深い不正採用や得点改ざんの歴史が明らかになることを期待します。

――焦点は。

取り消し処分に違法性があるかどうかに尽きます。まず、行政の採用も任免も行政処分ですから、違法性が確認されれば取り消されるのが原則です。しかし一方で、行政処分によって得た法的な地位や権利は、そう簡単には奪うことはできない、という考え方もある。この二つの異なる法律的な地位がせめぎ合うことになるでしょう。

――双方の主張をどう予想されますか。

県教委としては「誤りを正すにしかず」と言う主張一本に成らざるを得ない。
原告としては、それは認めながらも、守られる立場があるという様々な要素を重ねていけるかが課題になるでしょう。「自分は頼んでいない」「親も頼んでいない」「まじめな勤務態度」とかね。
採用された人の法的地位がどんなものなのか。まったく不正に関与していなかったか、広い意味で口利きに関与していたか、例えば両親や親族、第三者が勝手に動いたかどうか、などいろんなケースが考えられるでしょう。
その中で最も重要なものは、「答案用紙が残されていないのに、なぜ得点が改ざんされ、不正に合格していたか」を県教委が立証できるかどうか。県教委はこれに責任を持たなければいけない。
データ解析の技術的な話になるか、もしくは慣習として歴代にわたって改ざんが行われていたとなるのか、県教委としては自分の恥をさらすようだけど、克明にそのことを説明すれば元となるデータがなくても認められる可能性もある。その過程で口利きの真相も明らかになるのではないでしょうか。

――事件の印象を。

08年度に20人余りが採用取り消しを受けたという重さに比べ、県教委幹部の処分は軽い。攻撃を仕掛けるのも必要です。懲戒処分の義務づけなど、幹部の責任の取り方に食い込んでいくことも考えられます。若者の将来や夢を奪っておきながら、責任者が減給処分だけというのはおかしい。
取り消し処分を見送られた07年度採用に比べて不公平感も残り、原告には同情すべき点が多く、それを積み重ねていけるのか。行政は人権的であることが望まれ、ときには司法を予備的に借りて、それを実現していくことも大切ではないでしょうか。

さいとう・ひろし 45年8月生まれ。京都大学法学部卒業。地方自治体勤務を経て75年に弁護士会登録。日本弁護士連合会行政訴訟センター委員長。行政訴訟や国賠訴訟、地方自治に関する諸問題を多く手がける。


●社保庁のずさん管理により、年金未払いになった人に支払う場合の遅延利息をつける法律の検討が与野党によりなされており、斎藤浩にコメントが求められた。(朝日新聞2009年2月15日朝刊)

直ちに法整備を  ~斎藤浩・日本弁護士連合会行政訴訟センター委員長の話

「年金支払いの遅延利息に関する法律がないのは、国家はミスをしないという前提があるから。
だが、実際には大量のミスがある。
国家賠償訴訟で公務員の過失が認められた場合に遅延損害金が付くことや、年金保険料を滞納した場合に延滞金を課すこととの比例原則からいっても、年金支払いの遅延に利息を付すのは当たり前。直ちに法整備をするべきだ」。


●区画整理事業計画に関する最高裁大法廷判決(2008年9月10日)についての斎藤浩の新聞コメント(読売新聞2008年9月11日朝刊より)

日本弁護士連合会行政訴訟センター委員長の斎藤浩弁護士は、「今後は行政計画全般で、住民が取り消し訴訟を通じて計画の是非を問えるようになるだろう」と波及効果に期待する。
例えば、木造家屋の密集地域にビルを建て、公園などを整備する第1種市街地再開発事業。元の住民が所有していた不動産が、新しいビルの権利に置き換えられる。土地所有者が事業計画に不満を持っている場合、計画段階から訴訟を起こせることになる。
都市計画法に基づく用途地域の指定では、例えば工業地域にはホテルや料理店が建てられないなど、地域によって建設できる建物の用途が制限される。これまでは新たな施設を建設しようとしても、費用をかけて設計したうえ、建築確認申請を却下された段階でないと、裁判を起こせなかったが、今後はより早い段階で訴訟を起こせるようになる可能性がある。
ただ、行政計画の取り消しが訴訟の対象となるとしても、最終的に住民の請求が認められるかどうかは予断を許さない。


●当事務所雑誌「おおさかの街」休刊についての報道(毎日新聞2009年7月22日夕刊>

  遊歩道  『おおさかの街』    詩人 中塚 鞠子

先月、24年続いた『おおさかの街』が、70回記念号を出して休刊した。1985年1月に創刊したこのタウン誌(季刊)は、大阪固有の歴史と文化にこだわり、まちづくりや環境問題、何よりそこに生きる人々との交信を大切に、知力あふれる誌面作りをしてきたが、ついに休刊を余儀なくされた。
わたしは単なる一読者であったが、高村薫さんら著名人の巻頭言や広い視野からのインタビューを毎号掲げ、時代に先駆けた問題を取り上げていた。また、主筆自らが執筆していた「SOME評論」は、演劇・映画・文学・美術・写真と幅広いジャンルにわたっていて、読み応えがあった。バックナンバーをそろえて冊子にすると四半世紀の大阪の貴重な歴史の資料になるだろう。
さらに、「浪速人物往来」のコーナーでは、思ってもみなかった作家や文化人がかつて大阪に住んでいたり、大阪を通り過ぎていったり、思わぬところで大阪の影響を受けていたり、と面白く読んだものだ。
主筆の斎藤浩弁護士は最終号までの道のりを「……私の年齢では39歳から63歳であった。世紀をまたぎ、元号をまたぎ。青年末期から還暦をまたいだ」と記した。大勢の兼業記者で、こんな立派な雑誌を24年間も続けてこられたこと自体奇跡に近い。しかも1冊300円だった。
大阪には他に、『大阪人』(100%大阪市の出資)や『上方芸能』などがあるが、それらとはまたひと味違ったユニークな雑誌だった。
大手出版社の雑誌でさえ相次いで廃刊に追い込まれる時代、「大阪から人間の尊厳を発信」するようなこの種の雑誌は果たしてまた生まれるだろうか。


●当事務所発行の雑誌「おおさかの街」休刊についての報道 (産經新聞2009年7月8日朝刊)

■タウン誌「おおさかの街」 24年のこだわりに終止符

◆「やり尽くした」胸張って退場

大阪にこだわる雑誌がまた一つ、姿を消した。大阪で活動する人々を取り上げ、芥川・直木賞作家らによる豪華な巻頭言などでも知られたタウン誌「おおさかの街」が、5月25日発行の70号で休刊した。昭和60年に創刊して24年。発行者・主筆として、大阪の街を見つめてきた斎藤浩弁護士(63)=写真=に話を聞いた。
「『世界』と『文芸春秋』の中間くらいの雑誌を作りたかった。巨大な読者は獲得できなかったが、内容には胸を張れます」と斎藤さんは感慨深げ。最終号の記念巻頭言も『悼む人』で直木賞を受賞した作家、天童荒太さんの「悼みの実感」と読み応えがある。以前、斎藤さんが書いた書評を覚えていた天童さんが、多忙ながら快諾してくれたというからすごい。
これまでにも浅田次郎さん「普段着の街」、角田光代さん「大阪との細い糸」、山本一力さん「おいしい大阪」などそうそうたるメンバーが執筆。タイトルだけでも興味をそそる。手塚治虫さん、王貞治さんのインタビューなどもあった。
「残念でならないのは、今は忙しいがいずれ…と、はがきを頂いた司馬遼太郎さん、電話で書くと言ってくださった開高健さん。どちらも亡くなって実現できませんでした」
広告は取らず、定価300円で年に3~4回発行。大阪の歴史や文化、街づくり、環境問題にいたるまで、その時々に人や事象を取り上げてきた。大阪批判も偏見なしにそのまま掲載する客観性、そんな編集方針を貫いた。最近では、大阪市中央公会堂の保存・再生に携わった人を取材した総力特集、橋下徹大阪府知事の検証などが特筆もの。主筆が担当した「SOME(サム)評論」も名物コーナーだった。
旭屋書店本店やユーゴー書店など、20あまりの書店が心意気で置いてくれたが、商業ベースには乗らなかった。「やり尽くした。力尽きた」と斎藤さんはサバサバ。「でも素材はまだいくらでもある。次世代に期待したい」と無念さも。
雑誌不況といわれる。人々の価値観やニーズが多様化する現代、売れる商品づくりは難しい。一方で、紙媒体はデジタル化という大転換期を迎えている。また、違うかたちで「おおさかの街」に出合えるかもしれない。
バックナンバーなどの情報は(http://www.mmjp.or.jp/machi/)。 
(山上直子)


●2008年新司法試験公法短答式問題についての斎藤浩の苦言(「法学セミナー」2008年8月号)

論文式試験は非常にいい問題と思いましたが、短答式は少し批判がある。
まず理論と実務の架橋という目標からして公法系についてはどうかというと、狭い見聞ですが、実務の部分というのが法科大学院によってはまだ十分でないところがある。
実務家教員の使い方というのが必ずしもうまくいっていないところが見受けられる。つまりあまりうまくいっていないところは、既存の先生方が判例を中心にして事例研究を行っている場合が多く、この方法だけではまずい。
今、全体の問題を申し上げますが、新司法修習についてのあるいは新司法修習生についてのいわれなき批判がありますが、新司法修習には従来の前期修習がなくて、実務修習も従来より短縮されているのだから、法科大学院で実務部分を一定程度教育しなければ新司法修習修了者に対するいわれなきというか、ためにする批判が降り注ぐことになります。
したがって、短答式試験もそれなりの工夫で実務を教えている法科大学院に合わせて行われるべきですから、実務面の出題がなければならないと思っています。少なくとも短答式においては、それなりの実務教育をしている法科大学院のレベルにも合っていないというか、行政法についてはほとんどそれらしいことをしていない法科大学院のレベルに合わされているような感じがします。憲法の短答式の問題はそもそも理論と実務の架橋があまりなされていないのではないか。憲法は二段階遅れていて、行政法は一段階遅れているのではないかというのが私の評価です。
もちろん、行訴法(注 法セミでは行政法となっているが、校正ミス)も国賠法も民訴が基礎になっていますから、実務的問題を作ろうとしても民事系との重複とか、いろいろ難しい問題はあると思いますが、さらなる工夫がいるのではないか。憲法で言えば、論文式の第1問のように、両方の立場をきちんと思考させる方法はいいと思いますので、原告・被告の主張の振り分けとか、結論としての判例はどうかとかいうような聞き方もあるのではないかと思います。ひっかけや落とし穴のような問題ではなくて、ほとんどの人が正解するような基本的な問題が望ましいと思います。
行政法で言いますと、2004年の行政法改正で改正されたところは実務で不便なことへの最小限の手直しだったわけですが、被告適格、管轄、出訴期間、釈明処分の督促というような改正の中で、短答式で出たのは出訴期間が2006、2007、2008年と選択肢で1つずつ出ています。管轄は2006年の短答の選択肢に1つある。ほかにも(注 法セミではいかにもとなっているが、校正ミス)被告適格とか、釈明処分の督促とかいうようなことも含めて、全体としての行政法の短答式には欠けている部分が少し見受けられると思います。


●週刊新潮(2008年3月27日号)の「国に9割勝たせる『国家賠償』訴訟」という特集に求められた斎藤浩のコメント(「週刊新潮」2008年3月27日号)

「地裁・高裁の裁判官は、最高裁がどう言うだろうか、ということを常に窺っているのです」。 
「行政訴訟については、ずっと行政優位です。最高裁は平成16年前後から見直しに着手し訴訟ができる要件を緩和したものの、国民敗訴の結論はあまり変わらないので、地裁・高裁の裁判官は迷うのです。裁判官には上級審ばかりを気にするのではなく、法曹になった原点に立ち返って、国民感情と自らの正義感とを大事にした勇気ある判決を出して欲しい。それが日本の裁判を変え、国民が信頼する司法になる近道です」。


●小田急訴訟最高裁大法廷判決(2005年12月7日)についての斎藤浩の新聞コメント

■小田急訴訟 本丸での争い意義深い
(産経新聞2005年12月8日朝刊より)

〔日弁連で行訴法改正問題を担当した斎藤浩弁護士の話〕

原告適格範囲の異常な狭さは行政訴訟の大きな欠陥だっただけに、今回の判断は画期的で高く評価できる。逆に言えば、これまでは「司法消極主義」で、裁判所が個人の権利意識の高まりに付いていけなかっただけともいえる。従来は外堀でけられていた住民が、ようやく本丸である「行政の裁量の是非」を争えるようになったことは意義深い。この点についても積極的な判断が裁判所で確立されていくことを期待する。

■小田急訴訟 最高裁の意志感じる
(北海道新聞2005年12月8日朝刊より)

〔日弁連行政訴訟センター委員長の斎藤浩弁護士の話〕

原告適格範囲の異常な狭さは行政訴訟の大きな欠陥だっただけに、最高裁が行政事件訴訟法の改正条項を使い、公害対策基本法、東京都環境影響評価条例に配慮した上で、周辺住民に都市計画法上の原告適格を認めたことは画期的な意義がある。改正法の解釈について地裁、高裁からの判決が積み上がるのを待たずに、この判断を示したことにも「上からの改革」を急ぐ最高裁の強い意志を感じる。これでようやく「本丸」である行政の裁量論に行くわけだが、本丸でも裁判所の積極的判断を期待したい。


★ニュースファイルもくじ
◎マスコミ報道、コメント
◎意義ある裁判提訴、成果
◎国会公述、講演
◎著書への評価